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タイ:移民労働者は、継続的な困難に直面している

(ダナ マックレーン  JRSアジアパシフィック報道担当)
(編集:安藤勇 SJ、イエズス会社会司牧センター)
【社会司牧通信171号2013年6月15日】

[ここでは、タイにいる約150万人の非正規ミャンマー人移民労働者の状況について、最近の報告を取り上げます。執筆者は、タイのJRS(イエズス会難民サービス)の移民支援担当者です。]

社会は、移民と難民に対して、新しい考え方を発展させなければならない。
バンコク、2013年3月7日 ―― 先月、タイの推計200万人の非正規移民労働者は、4か月の滞在の延長を認められた。そして、2013年4月までに、タイのビザと労働許可証の登録手続きをするため、彼らは自国の国籍証明を取得する必要がある。

JRSタイの移民支援担当であるKohnwilai Teppunkoonngam氏によると、このことは当分の間は歓迎すべき処置であるが、新しい期限が過ぎた後、非正規移民労働者は、現在と同じように、逮捕と強制送還という危機に直面することになるだろう。

JRSホスピタリティ報告書にあるとおり、「社会は移民と難民に対して、新しい考え方を発展させなければならない:保護と支援を必要としている彼らはそれを受けるべきである」と、JRSは信じる。

人口の70%がミャンマーの強制的に移民させられた人々であるメーソトでのプログラムは、アドボカシー、労働権の教育、そして生計活動の機会の提供を含んでいる。

4月以降、期限が再び延長されない可能性が高いので、既にタイに滞在する必要な書類を持っていない移民労働者は、登録の手続きができないかもしれない。

Teppunkoonngam氏によると、その代り、タイ政府は、2002年-2003年の間に署名した二国間協定の下で、ラオス、カンボジア、そしてミャンマーに住んでいる新しい労働者を募集する計画をしている。

国籍証明と登録の基本
過去、活動と法的権利のより大きい自由を許可する、一時的なパスポートを移民に提供する国籍証明は、高い費用がかかった。彼らの平均日当は300バーツ(10ドル)足らずであるのに、タイの地方紙によると、移民はブローカーに、15,000バーツ(500ドル)まで払った。

ナコーンパトム県にあるマヒドン大学移民センターの研究員Andy Hall氏によると、2011年、広報またはそのプロセスの理解の乏しさのため、そして長々とした混乱させる手続きの、複雑で官僚的な性格のため、登録の最初の締め切り前に、多くの移民は登録することができなかった。

しかし2週間前、タイ政府は、4月の期限までに、国籍証明をより入手可能で利用しやすくする、タイのいたるところにある国籍証明書を取得するための、いくつかのワンストップサービスセンターの開設を発表した。

タイの国際移住機関(IOM)によると、新しい登録には、費用が合計で、9,000バーツ(およそ290ドル)かかるが、以前の費用の半分よりやや高い程度だという。

Teppunkoonngam氏は、「ワンストップセンターは、移民に対して、国籍証明の取得をずっとし易くするかもしれない」と語った。そして進行中の登録を許可するために、もっと永続的な処置を据える必要がある、と付け足した。

チェンマイにあるアドボカシーNGOであるMAP財団の常任理事Jackie Pollock氏は、「書類にすることは、必ずしも仕事の状況を改善するものではないが、汚職を減らし、差別を廃止するのに多くの機会を提供する」と言う。

過小評価されている移民の労働
過去20年間、タイは、非正規の移民労働者を搾取や虐待から保護することができなかった諸政策に対し、ますます増えるたくさんの精密な調査を受けてきた。

移民の労働は、タイの一年のGDPの推計4%に貢献しているにもかかわらず、特別に高い登録費用と、労働保護基準の執行の欠如によって、移民労働者は、傷つけられやすい状態に置かれ続けている。

JRSアジア太平洋地域の責任者Bambang神父は、「人間を安い移民労働の枠にはめることは、彼らの価値を、ただの経済発展、あるいはもっと悪くは、利益の源泉に過ぎないものとして、減少させてしまう」と語った。

MAP財団によると、30万人位が、現在、登録中だが、推計200万人以上の移民労働者がいまだそのプロセスから外れている。

Pollock氏は、「彼らはまだ、なんとかタイで仕事を見つけ、滞在しようとしている」と語った。イエズス会のBambang神父は、「付き随うことで、私たちは移民が、彼らの身の上話を明らかにするのに協力したい」と語った。「それが彼らへの関心を高め、彼らの声を強くする一つの道なのだ」と彼はつけ加えた。

未返済借金は人身売買の危険を増大させる
以前の秩序立ての過程の下で、平均賃金は一日300バーツ(10ドル)足らずなので、日々の稼ぎの半分を今後の使用のためにしまっておく移民は、登録するお金ができるのに、少なくとも5か月間は貯めなければならない。

このことが、莫大な数の非正規移民労働者が2011年に登録できなかった多くの理由の一つだ。Hall氏は、「登録には、非常に高い費用がかかり、それは借金を引き起こす」と語った。

Teppunkoonngam氏によると、借金の未返済、つまり親類や友達やブローカー、そして雇用者からさえお金を借りることは、非合法な搾取と人身売買の被害を増大させる。

Teppunkoonngam氏は、「ワンストップセンターは短期的には国籍証明の手段を改善するが、両方のドアを開けておく代わりに、こちら側のドアを永続的に閉めてしまうことは、長期的な解決にはならないかもしれない」と語った。そしてまたタイが、1990年の国際条約(「移民労働者条約」)に署名することを勧めている。

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タイのイエズス会難民サービス(JRS)からの報告

Patcharin Nawichai, JRSメーソト/プロジェクト担当者
Dana MacLean, JRSアジア太平洋報道官
【社会司牧通信170号2013年4月15日】

1.地雷を取り除こう
4月4日は、地雷に関する啓発および地雷除去支援のための国際デーです。そこでは通常、70か国以上の何千という人々が、地雷によって被害を受けた生存者と地域社会のことに思いを馳せ、対人地雷という災いを終わらせるように要求します。
タイは、地雷禁止条約の5条で計画された期限にしたがって2018年までに全ての地雷を除去したい。

2001年、タイには地雷に冒されている地域がおよそ2,557km²ありました。タイ地雷除去センター(TMAC)のようなNGO団体による地雷除去が行われて10年後、ノルウェー・ ピープルズ・エイドNorwegian People’s Aid のレベル1の調査によると、除去されるべき疑わしい頑固な危険地域が、現在もおよそ528km²残っているということです。

チャンタブリー県のポーナムローン地雷生存者ネットワークの指導者、Chusak Saelee氏は次のように言っています、「地雷除去と被害者のために、意識を高め支援を提供することは、とても大切なことです。タイは、過去13年間で意義深い前進をしました。地雷被害生存者の生活の質は著しく改善しましたが、私の友人の何人かは、いまだ専門的なサービスを利用することが極めて困難です。「地雷除去の努力が続き、そのことから被害者たちがより一層の利益を受け取れることを、私たちは本当に希望しています。私はこれ以上、将来に、新しい被害者が出るのを見たくないのです」。
(出典:JRS Asia Pacific Web:タイ、「今日は500km²の地雷の除去を要求する日だ」)

2.工場からの声
2013年1月1日
JRSは、傷つきやすい共同体の暮らしを援助するために、2006年よりメーソトMae Sotで、移民労働者と共に働いている。2012年12月31日、メーソト ―― タイは何十万というビルマ人移民労働者を受け入れ、その内の10万人以上がメーソトの工場で雇用されています。

ミャンマー南シャン州のタウンジーTaunggyi出身の1- ローズ*さん(28)は、12歳の時、父親によってメーソトに連れて来られました。13歳の時、ひと月、1,000バーツを稼げる麺店で働くために、ブローカーは彼女をバンコクへ連れて行きました。

3年後、結婚し、初めての子どもを身ごもった後、ローズさんは移民労働者がバンコクで日々直面している、逮捕される心配から逃れるために、メーソトに戻りました。ローズさんの経験は特別なものではありません。
ミャンマー東部のピュー町の出身の2- ポエさん*(18)は、13歳から縫製工場で働いています。
休憩や病気休暇なしの長時間労働、お金をためるための苦闘、そして適切な安全基準と労働権の不在といったことが、ローズさんやポエポエさんの体験を特徴づけるものであり、それはタイにいる多くの他の何千という移民労働者にも当てはまることです。

労働条件
ローズさんは、縫製工場の床と机を掃除していますが、一日あたりの賃料は150バーツ(およそ5ドル)で、毎日10時間以上働いています。労働者には交替時間に遅れた場合、一時間あたり、3時間分の賃金が差し引かれてしまいます。それと同様に、仕事を一日休んだ場合、3日分の支払いがなしになります。
それにもかかわらず、ローズさんは彼女の仕事があるために感謝しています。

「いい報酬を受け取れるので、私はここで働くのが好きです」と彼女はJRSメーソトの職員に言いました。しかし彼女は、経済的困難がストレスの不断の原因となっていることを認めています。「子どもたちの教育費を支払うために、私はまだお金が必要なのです。」と彼女は言いました。「私はかつて斡旋業者に4,500バーツ支払って、ジャングルを通って、歩いてバンコクまで連れて行ってもらいました。そこで私はもっと収入のよい仕事を見つけるつもりでしたが、私たちはだまされて、人里離れたところに残されたのです」、失意の思いを目にたたえて、彼女は言いました。
しかしローズさんは、いまだ工場内で身の危険を感じたことのない幸運な人の一人です。彼女の仕事場はよく管理されているという高い評判を維持しています。

彼女は次のように主張しました、「床と机を掃除する仕事はたしかに快適な仕事ではないけれども、私は安全でないと感じたことはありません」。
一方、ポエポエさんは別の縫製工場で働いていますが、女性のための仕切られたトイレやシャワー室がないので、寮は無防備だと感じています。肉体的な乱暴を受けたことはないのですが、ポエポエさんはシャワーを浴びる時、しばしば男性に見られるので、安全ではないと感じています。
加えて、ポエポエさんによると、衣服を仕立てるのに使う古いミシンが危険で、工場の設備はいつも安全だとは限らないといいます。
「工場長は注意を払ってくれません。しかし私たちはそれらの機械を使うのが本当に怖いのです・・・、新しい作業員は古い機械を使います、なぜなら彼らには選択の余地がないからです」、そう彼女は言いました。

労働権
2012年、JRSメーソトは、海外イラワジ協会Overseas Irrawaddy Associationによって先導された二つのグループ討議を支援しました。それは、移民労働者のために、労働権について議論するものでした。
ローズさんは言いました、「私たちの権利は十分に尊重されているとは言えません、私たちは十分な休憩時間さえ与えられていないのですから」。ポエポエさんは一日に10時間以上も、休みもなく縫物をしています。
彼女は言いました、「私たちには十分な休憩がありません。まったく公平じゃありません」。彼女は別の仕事を見つけたいのですが、両親がその工場に彼女と一緒に滞在しているので、囚われたような気持になっているのです。ポエポエさんは言いました、「私は本当に、もっとよい条件ともっと高い報酬が欲しい・・・、でももし私が今の仕事を辞めたら、両親の滞在する場所はなくなってしまうでしょう」。
ポエポエさんとローズさんは二人とも、農業をするために、ミャンマーのふるさとに戻る夢は持ち続けています。
「私はタイで生活したいです。なぜなら、安全だし、稼ぐための方法がたくさんあるからです。でも、現在ミャワデイに住んでいる両親がタウンジーに戻りたいなら、私は一緒に行くでしょう。私たちはまだ農業ができる土地を持っています」とローズさんは言いました。
「もし私がお金を貯めることができれば、農業をやるために家族を連れてふるさとに戻るでしょう。そこで、私たちは幸せな生活を送るのです」とポエポエさんはため息をつきました。
(出典:JRS Asia Pacific Web:「タイ:工場からの声」メーソト、2012.12.31)
1,2 * 名前は身元を保護するため変えてあります。
(編集:安藤勇 SJ、イエズス会社会司牧センター)

【 報 告 】 JRSとアフリカ難民

茭口公喜(こもぐちただよし)(広島学院中・高等学校教諭) 【社会司牧通信141号2007年12月15日】

 ローマでの休日
 JRS(イエズス会難民サービス)は1980年、「他者のための人間」像を顕現化すべく、広島の修道院から日本管区長を経てイエズス会総長、すなわち、イエズス会創始者イグナチオの後継者に就任したペドロ・アルペ神父により設立された。戦火や飢饉を逃れ命からがら国境線を越えて避難してきた難民を、カトリックの使命感に則って手助けをする機関である。「一緒に」「仕える」「代弁する」をモットーに活動をしている。

 イエズス会の総本山ジェズ教会の裏手、地下にJRSローマがあり、またローマの難民センターでもある。小さなチャペルの入り口には、ロバに乗ったイエスのモザイクがある。「ヨセフとマリアに連れられたイエス自身も難民です。さあ、皆さんも元気を出しなさいというメッセージが込められています」と、JRSインターナショナル・チーフのマグリーニャ神父が微笑んで見上げておられた。

JRSのマーク

イエスも難民

 ここで、アフガニスタンやイラクからの難民に給食のサービスを行なっている。小さな診療室もあり、ボランティアの医師が二人来てくれるという。午後4時から約400名分の食事を食べさせている。この給仕の手伝いができないか訊いてみたが、基本的にはイタリア語で行なうゆえに、苦労しそうということで見送ることになった、残念。マグリーニャ神父はJRSイタリアのチーフのジョバンニ神父とミラノとジェノバに開設した難民センターについての話をしている。マグリーニャ神父は昨夜11時にジェノバから帰ってきたばかりである。 こういう献身的な働きによって多くの人が助かり、希望を見いだせる。何とやり甲斐のある仕事だろう。しかし、それこそ神様の恩寵、才能がないとできない仕事ではある。マグリーニャ神父は2つの学位を持ち、母国語のスペイン語とラテン語、ポルトガル語、ドイツ語、フランス語そして英語、イタリア語を理解し、話す。話すといっても内容は世界の難民のことであるから、政治・経済の専門用語や地理や民族の知識の上にある、その土地土地のスタッフと難民の細やかな感情を汲んでの会話である。これは、手伝えるはずもない。自分にできることだけをしよう…。

 ケニヤの難民キャンプ
 具体的に難民キャンプに行くお話。難民キャンプは観光地ではない。そもそも就航便自体、国連か国連難民高等弁務官事務所のどちらかの定期便である。乗せてもらうのに目的や身分証明などの手続きが必要。一般路線で行くとすれば、最寄りの空港はロキチョキオ。ロキチョキオから難民キャンプへはどうやっていくか? タクシーで行こうと思っても、ドライバーに断わられる。低木がぱらぱらとしか見られない地平線まで続く平らな土地。そこにまっすぐに伸びる1本の道路。視力3とか4という双眼鏡のような目で見れば、遥か彼方から来る自動車に気づくのは難しくない。道路に石を並べれば作業完了。止まった車から石を退かそうと降りてきた運転手を銃で撃ち車ごと奪う。これが、盗賊の手口らしい。それを避けるためには、国連と警察の護衛をつけて5台以上で連れ立って移動する。これをコンボイと呼んでいる。私の乗った車には弾痕と思しきものが2箇所あった。

国連とのコンボイ

無惨に壊れた車

難民キャンプも時が経ち、その様相は変わっていく。何とか緊急の命の危機的な状況・飢餓や疫病が一段落すると、全体のシステムが整備される。住むところ、上水・下水など、食糧の供給システムとルール。治安の管理・病院、学校などの施設の設立。現在のキャンプの円滑な維持と共に、難民の帰国後の祖国再建という問題を希望的に解決しない限り、難民は帰る術も無くただそこに生活するだけになる。JRSは、教育に関わることと共に、難民の抱えるトラウマの緩和・除去に大きく貢献している。祖国が落ち着きを取り戻し、命の危険が去ったら、難民は祖国に帰る。教育を受けておかないと国の再建などという大きな夢は叶わない。JRSは初等教育のみならず、中等・高等教育にパイプを持ち、援助を続ける。再建に必要なのは高等教育を身に付けた人材の育成である。教育の機会が初等教育を終了した時点でなくなる事が多いのは事実。JRSは、中等高等教育の機会を与えている。しかし、このこの教育が新たな問題を生んでいる。祖国は、命の危険はなくなっても教育施設が無い。仮にあったとしてもそのカリキュラムに整合性が無ければ、今までの教育は無駄になる。そこでJRSは、祖国側にも同じカリキュラムの学校をつくるように計画を進めている。

 ただ、直接、難民キャンプへの援助という側面が薄れて、見ようによっては、運営によっては、難民へのサービスの枠を大きく出てしまい、直接国の再建の援助の側面を持ち、ハードとソフトの両面から莫大な資金や人材が必要になる。キャンプが運営されてしばらくすると、キャンプの中での民族問題・争いごとが表面化してくる。命からがら逃げてきたのは良いが、気がつけば自分をこのような状況に追いやった連中がキャンプ内にいる。また、言葉・信条・生活習慣などが混在するキャンプ内には数々の問題が存在するが、第三者が正論のみでこれを解決出来ようはずも無く、問題は水面下へ潜っていく。『おまえはお客さんだから、ここの連中(国連やJRSのスタッフ)は絶対言わないだろうけど、ここは恐ろしいところだぜ…』、そういう前置きで語ってくれたことは、事実かどうかの確認のしようも無いことだが、彼らの表情にはそれを真実だと思わせるに足る迫力があった…。

 また、携帯電話の普及により問題の即時発見や対処が容易になった反面、スタッフに多くの負担がかかるようになってきた。それぞれが現場で解決することよりも、判断を仰ぐことにより正しい判断ができる可能性があると同時に、責任の転嫁も容易になり、現場での臨機応変な対応を阻害する事例も見当たるようになってきた。また、電話は殆どが「ワン切り」(電話をかけて、呼び出し音を1回だけ鳴らして電話を切り、相手がかけ直してくるのを待つこと)だという。着信音がして、ナンバーが難民からのものであれば、掛けなおさない訳にはいかないという。そのための電話代はかなり高額になり、彼らを圧迫している。
 そして、ある程度安定したキャンプにつきものの恐ろしい問題、つまり、「予算の削減」。また、新たな問題の中でも鳥インフルエンザは、よりによってこの過酷なキャンプ場の近くで発見された…。

鳥インフルエンザの警戒看板

 難民キャンプは、どんなところに作るのだろうか。国境付近であることは必要だが、住むための条件の良いところでは決して無いはずだ。良い条件のところにはすでに人が住んでいる。「今日からここを難民キャンプにするから皆立ち退きなさい」と言って問題が起こらないはずがない。したがって先住民の権利の大きなところには難民キャンプはできない。全くの無人地区はありえないだろうが、それに近いところが選ばれる。

 トゥルカナ地方は乾燥地帯で平均気温40℃といわれる厳しい自然環境。トゥルカナ族が細々と放牧をしている地域である。そこに難民キャンプが出来た。トゥルカナ民族への相談は…、無かった。そのカクマがだんだん大きくなって今や8万人を越す人口である。幅1km長さ15kmの難民キャンプの人口密度はかなり大きいし、人口はケニヤで4番目に多い町(?)である。

 もともと人があまり住まなかったのは、水が無いからである。そこへ8万人もの人が住むとなると、莫大な量の水が必要になる。とはいえ、もともと水のないところなのだから、住民の要求どおりに水を供給できるはずがない。時間による給水制限は始めからあり、水がなくなったからやっているわけではない。給水は、コミュニティーごと1時間。蛇口はわずか2つ。これが、約200人のコミュニティーの住人を生かしている。時間前にはたくさんのポリタンクが給水所に並ぶ。1時間で、さらに給水時間が始まってから集まってくるポリタンクすべてを水で満たすことは不可能だ。そもそも、ポリタンクのいくつかは前日からそこにある、すなわち前日の未供給分なのだ。

水の配給は1時間

 では、前日水がもらえなかった人たちはどうしたのだろうか? 近所からのもらい水しかない。お互いに助け合っていかないとキャンプでの生活は成り立たないのだ。難民の中には祖国での迫害や逃げる途中の苦労から、ハンディを背負っている人は少なくない。コミュニティーは、それぞれの事情をすっぽり飲み込む余裕がないと成り立たない。もともと良好な関係があったわけでもない住民同士のコミュニティーに、その余裕を求めるのも酷な事かも知れない。

 強い日差しの中、そこに並んで水を汲み溜めているのは、女性や子どもである。子どもは重要な働き手。「学校は?」という心配よりも、水がないと生活が成り立たないという心配の優先順位の方が高い。そして、持ってみると分かるが、女性や子どもには水は重すぎる。重いポリタンクを持って、炎天下に住む所に戻る姿は、多くの課題を抱えながら自国に戻りゆく彼らの姿に重なるところが多い。

 給水塔に上る許可をもらった。はしごで15m程上るのだが、鉄筋のはしごを握る手が汗ですべる…恐ろしい。高所恐怖症ではない、はしごが貧弱でさびているのだ。

給水塔に上る

給水塔から見たキャンプ

 何とか上り、難民キャンプを見おろして、驚いた。緑が豊かなのである。コミュニティーや家族毎の家の境界は明白である。植物が生い茂っているのだ。十分ではないにしても、8万人の人が生きていくだけの水は、どこからか持ってきているのである。植物の無い乾燥地帯も、人の生活の影響で緑が増えていくのだなあと、降りるときのことを考えないようにしながら、給水塔からの風景を楽しんだ。

[乾燥したカクマの土地

緑豊かな難民キャンプ

 あるソマリア人の話 
現地JRSの取り計らいで、家庭訪問カウンセリングサービスに同行させてもらった。理由も無く祖国を、故郷を捨てる者はいない。その事情がトラウマになっては、厳しい環境での復興は土台無理な話。トラウマを取り除くべくカウンセリングを施す団体は他に無い。難民キャンプの過酷な環境と生活リズムに合わせて、家庭訪問のカウンセリングサービスは、とても重要な役割を担っている。
 あるソマリア人の家族を訪問した。母親がカウンセリングを申し込んだのだ。夫が寝たきりで動けないので、デイケアセンターに行けないという。刺のある木で作られた垣根に囲まれて、親子5人が暮らす家があった。この暑いのに、直射日光の当るところに男性が毛布をかぶって横になっている。この家の主だが、国から逃げる途中背骨を痛めてしまったという。一度は回復に向かったが、無理をして再び痛めてしまい、それ以降は寝たきりである。そこで、力仕事から家事・看護、子どもの世話までをすべて、この母親がひとりで切り盛りしている。国に帰る算段や子どもの将来などを案ずる暇もなく、ただ看病と日々の生活に明け暮れている。その過労・心労のツケが彼女に回ってくる。目が見えにくい。このままだと目がみえなくなるという不安と、家をどうすればいいのかという不安が彼女を襲い、眠れない…。目の病院に行きたいが、時間を作れないし、お金がない。カウンセラーは、ただ話を聞くだけである。自身も難民の身であれば差し出す援助の手もない。
 次に訪れたのは、やはりソマリアから来た人の家。通りに面した小さな家は、雨が降ったら泥水が押し寄せてくるという。この家は国連により与えられたものではなく、空き家になっていたので勝手に移り住んだらしい。夫もソマリア人で、数kmはなれたところに、彼の両親らとコミュニティーを形成していた。夫はエイズを発症し、「妻と子供を追い出した」らしい。その時、妻と子供の食料の配給台帳等はくれなかったという。妻や子に病気をうつしたくなかったのか、病気の治療にかかる負担を妻子の分の食料を売ることによる収入でカバーしようとしたのか、どちらかだろうとカウンセラーは言っていた。しかし、配給がないまま出て行けということは死ねと言っているようなものだ。

生活は困難を極める

ストレスは一気に母親に

子供は3人。11歳の長女は元気だが、次女とその弟は何か様子がおかしい。JRSスタッフは、「多分二人はエイズだと思う」と言う。皆HIV検査にも行っていない。結果を知るのが怖いから行かない。育ち盛りの子供をかかえて、食糧の配給も受けられない。国連に話をしても、「家庭の問題」と請け合わない。しかし、正論を言っても現実的には何の解決にもならない。カウンセラーもトラウマとか心の傷とかではなく、現実の解決すべき難問を突きつけられ、為す術がない。彼はよきサマリア人になりたくても話を聞くことしかできないことを情けないと感じたようだが、自らも難民の身でありながら人に何かしてあげられない自分に傷つくこの人々に深い敬意を感じた。

 後日、難民キャンプ内の人々に別れを告げに来たときに、再び目の悪いソマリアのおばさんにあった。「目の調子はいかがですか?」と訊くと、「目はね、メガネを作れば良いだけの話なんだけど、お金がないのよ。カウンセラーに言えば、JRSが『メガネを作りなさい』って援助してくれるかなと思ったのよ」とサバサバした調子で言っていた。「何もしてあげられなくてすみません。このソマリアの親子の相談相手になってください」とお願いしたら、「もちろんよ」とこれまた明るく答えてくれた。私とて、話を聞く以外に何もしてあげられなかったのに、「また、来るのよ。きっとよ」と言ってくれた。

メリーさん
 メリーを見た瞬間、何も訊かなくてもわかることがある。心に深い傷をおい、それは言葉や物ではどうしようもないものだということ。名前を聞くとその名が自分にとっても心の傷になるような気がしたから、できれば、名前を知りたくなかったが、連れて行ってくれたJRSのスタッフからメリーと聞かされた。彼女が10歳の時スーダンで村が襲われた。両親を撃ち殺され、彼女も背中を撃たれた。倒れた彼女の胴の部分は焼け爛れ、両足の自由を失ってしまった。親戚も皆やられた。ケニヤとの国境付近の病院で3年間過ごした後、難民として今カクマにいる。カクマの環境は彼女には辛すぎる。希望も望みももはや無いと言う。身寄りも無く、スーダンでの村人の生き残りの人々と同じコミュニティーに入れてもらっている。彼女には村の人も親切にしてくれるらしい。
 彼女にはJRSの特別支援奨学金が施されている。19歳の今、小学校の7年生である。遅ればせながら彼女は学校に通い始めた。彼女が自立を果たすことが出来るとすれば、軽度のデスクワークである。勉強では生物が好きだという彼女に「医者になれたらいいね。人の痛みのわかる良いお医者さんになるだろうに」と伝えたら、寂しそうに「そうですね。そうなれたらいいですね…」と答えたが、言葉には実現に向かうエネルギーは感じられなかった。「私にはスーダンに知り合いもいません。このキャンプが閉鎖にでもなったら私はどこに行けばいいのか全くわかりません。少しでも勉強して、タイピストにでもなれたら何とか生きて行けるかしら…」。これから先コンピュータプログラマーなら必要だが、果たしてタイピストが必要なのだろうか。しかし、彼女に具体的な自立の道は他に思いつかないのだ。
 ちょうど授業が終わり、彼女は松葉杖をついて帰途についた。細い腕、細い体で一生懸命に松葉杖をつく。後日、JRSの施設で彼女に会った。小学校の制服と違い、民族衣装を着ている彼女はとても綺麗だった。

民族衣装のメリーさん

歩いて帰るメリーさん

 ナイロビの難民
 ナイロビでのことである。もともと許容範囲の小さな私は、これ以上は消化できないのではと思っていたが、最後の力を振り絞ってナイロビ市内のスラムを訪れることにした。案内してくださるのは、JRS「教区内極貧救済部門」の担当シスター・マーシー。彼女の元を訪れていたエチオピアからの難民女性とその2歳の子供の家を訪問する。この時期、ナイロビには良く雨が降る。排水の悪い道路は泥の川になり、交通は大渋滞、水溜ができ、マラリア蚊が大発生する。足元に気をつけてシスターの後を追う。小さな路地に面した古い建物のひとつに入り、狭い階段を4階まで上る。ドアらしいドアの無い3畳程度の部屋が、親子の家である。窓が1箇所あり、窓ガラスは無い。正方形の穴が開いているだけだ。当然蚊の襲来を防ぐ手立てはない。家具は、ベッドと小さなタンスがひとつ。水道やトイレは無論ない。聖書と薬のビンが棚の上にある。難民男性と結婚し、2年前に出産。男は他に女を作って出て行った。2人は教会に救いを求めた。洗濯物を預かっては手間賃をもらうのが唯一の収入。体の調子が悪く、洗濯物も預かれない。最近夜は寒いし、蚊帳を買うお金も無い…。棚の上の薬は、配給されているエイズの進行を遅らせる薬らしい。「子どもも…HIV陽性ですか?」と訊いた。幸い子供はHIV陰性。「この母親の2年後の生存確率は限りなくゼロに近いのでは?」「多分そうでしょう」「……」シスターも目を覆うのみ。この状況をどう収めるのか、どう解決すればいいのか。やるせなさ、せつなさ、怒り、諦観…色々な感情が頭を巡り、混乱していた私の耳に聞こえたのは、シスター・マーシーの「祈りましょう…」という言葉だった。2人とも聖書に手を置いて祈っている。只静かに祈り、出口の見えない絶望に立ち向かっている。この逆境にあって、この人たちは強い。私の旅はこの、「これが信仰か…」という驚きで幕を下ろした。

家庭訪問した難民の親子

子どもは2歳

カクマキャンプ遠景

【 記 念 】イエズス会難民サービスの25年

安藤 勇(イエズス会社会司牧センター) 【社会司牧通信129号2005年12月15日】

 イエズス会難民サービス(JRS)は2005年10月21日、難民に奉仕して25周年を記念する記者会見を、本部のあるローマで開いた。JRSの国際事務局ディレクター、Lluis Magrina神父(イエズス会)は、難民の状況とJRSの世界的な活動について、概略を説明した。Magrina師が示した霊性と教育についての2冊の新しい本は、JRSが難民に同伴し、奉仕し、その権利を世論に訴えてきた25年間の歩みを、彼らが出会った生と死、希望、困難を通して、映し出している。

 この元JRSスタッフによる2冊の本の内容は、記者会見で簡単に紹介された。”GOD IN EXILE: Toward a shared spirituality with refugees”(追放される神:難民と分かち合う霊性)は、Pablo Alonso神父(イエズス会)によるもので、追放された人々の旅路とJRSの具体的な活動に重要に意義をもたらす、深い霊性を探究している。この本は、常に難民の人々の体験に基づいて、JRSの組織に影響を与える、実践的な本だ。「私たちは、難民キャンプに、収容所に、閉ざされた国境に神を見いだすために、霊性を深めなければなりません。難民とともに分かち合う、よりよい世界への願いは、希望をもたらします。これこそ難民が与えることのできる贈り物です」と、Alonso神父は語った。

 ”HORIZONS OF LEARNING: 25 years of JRS educatin”(学習の地平:JRSによる教育の25年)は、Sr. Lolin Menendez(聖心会)によるものだ。「教育は難民に希望を与えるもので、その意味で教育は、食べ物や住まい、水と同じくらい重要です。追放生活は悲惨ですが、未来に対する意識と技能を身につけるチャンスにもなり得ます。教育とは、学校や教科書、学問だけのことではありません。紛争解決のような教育プログラムは非常に有益であり、リーダーシップを発揮させ、人権侵害を監視し、衛生状態を改善するのに役立ちます。この本は、子どもたちと自分たち自身を教育しようとしてきた難民の人たちの、努力を賞賛する本です。また、教育の力を信じる世界中のJRSワーカーたちを賞賛する本でもあります」と、Sr. Menendezは語った。
 1980年11月14日、当時のイエズス会総長、Pedro Arrupe神父は、難民に同伴し、奉仕し、その権利を訴えるJRSの設立を会員に宣言したが、当時の世界の難民の数は1600万人だった。イエズス会員はベトナムのボート・ピープルに寄り添い、人道支援と教育サービスを提供した。こんにち、世界中の難民は5千万人を数え、JRSの活動する状況は劇的に変化した。JRSが提供するサービスの領域と数は急激に増えている。

 この記事を書いている最中に、イエズス会総長のPeter-Hans Kolvenbach神父が全会員に宛てた、JRS25周年についての手紙が届いた。手紙は11月24日の設立記念日に出され、JRSの重要性を強調している。

記念ミサでの濱尾枢機卿
 2005年10月21日、ローマのジェス教会で、JRS25周年記念の感謝ミサが執り行われた。説教で、濱尾枢機卿はこう述べた(抜粋)。「人々(難民)は今なお、メシアであるイエスに従っています。彼らは、子どもを殺すかわりに、非暴力の価値を信じます。真理と愛の価値を薄め、あきらめるかわりに、犠牲を甘んじて受けます。私たちの神ヤハウェが、難民とその生き方のうちに、見える者として存在し、その力によって、人々のまったき生を実現することを信じています-私たちの手によって、また、後に続く人々の手によって。そして、主の言葉が私たちに届きます。『私は今日、あなた方をエジプトから導き出す』
 私たちは、この招きに何とか応えようと、今日ここに集っています。私たちはJRS25年の奉仕を、感謝をもって思い起こします。彼らは困難にあっても辛抱強く、誠実でした。JRSはたくさんの難民とともにあり、生き生きと働いています。イエズス会難民サービスは彼らにとって一つの恵みであり、その体験にあずかる人にとって、自らの価値を高めてくれるものであります。

JRSは草の根の人々に直接に関わり、彼らのそばにいて、その目をのぞき込み、その身の上話に耳を傾けます。食料の確保が脅かされている難民キャンプに、教育プロジェクトを受けている若者たちの中に、危険にさらされる女性たちが相談している保護施設に、無実の人々が囚われている収容所に、日常の希望と悲しみを捧げるために集うキリスト教共同体とともに、JRSはいます。未来は実現されなけばいけません。イエズス会難民サービスは、同じ姿勢で、国連とヨーロッパ連合の回廊にも出かけます。諸問題の原因に取り組み、ロビイ活動をし、世論喚起に携わり、政治家や公務員を動かして、声なき人々のために、希望のしるしを実現させるために働きます。これこそJRSの働きです。彼らは信仰に基づいた活動の模範であり、彼らの模範は多くの人を触発し、後に従わせます。無力かもしれないが、メシアであるイエスに従う覚悟のある人々を、献身的な奉仕のうちに、一つにまとめます。他の人々と協力すれば、神の国のしるしを実現することは可能だと信じて。私たちがそのような人でありつづけることを願い、また祈ります。結局、『現代人の喜びと希望、悲しみと不安、とりわけ貧しい人々やしいたげられている人々のそれは、イエス・キリストのすべての弟子の喜びと希望、悲しみと不安である』のです」

アジアでの25年 
タイ・バンコクには最初のJRS地域事務所が置かれ、当初からベトナムからのボート・ピープルや、カンボジア・ラオス難民に深く関わってきた。JRSアジア事務所はまさに満25周年を迎えた。あるイエズス会員は、こう振り返っている。
 「一つはっきりしていることは、難民とは危険な人々だということです。あらゆる国の政府が、この史実をはっきりと認識しています。さもなければ、どうして各国政府やマスコミが、難民を望まれない犯罪者、受け入れ国にとっての諸悪の根元として扱っているのでしょう?
 いったん、難民たちがあなたの生活に入り込んできたら、彼らはあなたの人となりを変えてしまいます。私に起きたことが、まさにそうでした。彼らは私たちが深く信じてきた-しかし、多分その大部分は検証されたことのない-さまざまな仮定や思いこみにチャレンジします。難民たちは、ただありのままで存在するだけで、そうした私たちの仮定や思いこみの多くには何の価値もないばかりか、見たこともないほど暴力的であることを気づかせてくれます。

カンボジア、地震被災者チャンナレットさん一家

 あなたの人生に一人でも難民を迎え入れて、その人に触れてみて下さい。あなたはもはや、自分に対して恐ろしい暴力をふるうことなしに、以前のように快適な立場から世界とその仕組みを眺めることができなくなるでしょう。
 難民たちは、追放された者、無力な者の視点から世界の歴史を書き換えます。難民は私のような人に、恵まれない人、望まれない人、疎外された人の視点から、自分の生活を改めて作り直させてくれます。
 難民が危険なのは、彼らが回心、変化をもたらすからです。そして、この個人的な変化は、生活のあらゆる面に及びます。多くの人にとって、この変化は非常に心乱されるものです。
 これはもちろん、とても高くつく霊的な回心のプロセスであり、キリスト者が『おん父』と呼ぶ聖なる方の招きへと、自分を従わせるプロセスです。こうした個人的な体験については、他の宗教の方や、無宗教の善意ある方も、それぞれ独自の体験の仕方をするでしょう。この招きは、すべての人を兄弟姉妹、同じ『父』の子とみなし、自分自身を暴力から遠ざけるよう求めています。
 難民は罪の世の現れであり、罪の暴力が私たちを含めた人間に及ぼす悪の現れです。難民は、世界の既存のシステム-政治、経済、軍事、教育、社会、医療など、あらゆるシステム-に組み込まれている、構造的罪の現れです。

 多くの善意ある人々、知的で専門技術もあり、意欲に燃えた人々が、持てる才能を用いて、社会の向上のために懸命に取り組んでいるにもかかわらず、難民はあらゆるシステムの中心にある腐敗を現しています。そして何より、難民は、彼らの前にあえて身をさらす人々に、この罪の世に生きるすべての人々(私も含めて)の複雑さ(これもまた、しばしば気づかれてないものです)を現しています。難民は、いまだ解決されていない課題体現しているのです。
 ですから、私の友である難民の皆さん、私は皆さんの信じがたいほどの勇気、生命力、創造性、人間性を讃えて、大きな『ありがとう』を捧げます。皆さんが、恐ろしい扱いを体験してきたにもかかわらず、自らの人間性を保ちつづけていることは、私にとって、神の皆さんに対する限りない愛に満ちた憐れみの神秘を示しており、愛と憐れみを明らかに欠いているこの世界への、一つの挑戦に他なりません。私が皆さんと出会い、皆さんを知り、触れあう機会を与えてくれた、イエズス会の長上とJRSに感謝します。そして何より、私の友だちとなってくれた、友である難民の皆さんに感謝します」

オーストラリアのJRS
 10月15日、JRSの元ワーカーと現役のワーカー90人がシドニーのリバービュー大学に集まり、JRS25周年を祝った。それは、ともに振り返り、旧友とのきずなを確認する日であった。だが、そこには悲しみの色もあった。今現在、世界で5千万人の人々が自国の中で、あるいは国境を越えて、故郷を追われている。Arrupe神父の目標は、インドシナ戦争で故郷を追われた人々に、実際的で押しつけがましくない支援を行う組織を設立することだった。JRS設立の時の難民は1600万人だったが、その数が増えるにつれて、JRSの仕事も増えている。 1990~2000年にJRSの国際事務局のディレクターを務めたMark Raper神父(イエズス会)は、JRSオーストラリアのディナーで講演し、JRSの精神の形成を助けてきた難民やボランティアのことを、想起させた。 Raper師は、JRSの行動哲学、まず難民に同伴することから始まり、この同伴から難民への奉仕と世論喚起を打ち立てていく、その活動スタイルを改めて指摘した。また、もっとも資源の乏しいところ、もっとも大きな必要のあるところで働くというJRSの精神も強調した。

ヨーロッパ:変革のビジョン
 「移民問題を討議し、その解決を探るには、まずこの問題の人間的な側面を理解することから出発しなければならい」。JRSヨーロッパのアシスタント・ディレクター、Michael Schoepf神父(イエズス会)は、10月21日にローマで開かれた「ヨーロッパの移民:ヨーロッパにおける変革の政治的ビジョン」という会議で、こう述べた。この会議はJRS25周年を記念して開かれた。
 会議のメイン・スピーカーであった、欧州委員会の司法・自由・安全分野担当理事、Ms. Angela Martiniは、欧州委員会で採択されたハーグ・プログラムのための3つの優先課題について強調した。すなわち、①移民に関する共通政策の策定、そこには正規の移民すべてに対して法的地位を保障することが含まれる、②不正規移民に対する取り締まり強化、そこにはEU国境の取り締まり強化や移民送出国とEU加盟国との協力強化が含まれる、③安全で寛大な亡命庇護政策。
 Ms. Martiniは、JRS25周年に祝辞を述べた後、彼女が「避難民-難民-開発ネクサス(関連し合うテーマ)」と呼ぶ、一連の問題について述べた。つまり、いまや避難民と難民の区別は困難であり、難民が生まれる原因である貧困問題と闘うために、難民送出国と開発政策について共同で働くことが重要なのである。彼女はまた、避難民と難民を一つのカテゴリーにまとめることの重要性も強調した。そのためには、避難民にも労働を認める政策が必要だ、と述べた。

日本のイエズス会とJRS JRSの設立はベトナムのボート・ピープルの問題と密接に結びついており、日本は他の先進国に比べて難民の受け入れに熱心ではなかったが、UNHCRをはじめとする難民支援の国際団体に、非常に多額の支援をしてきた。日本管区に関して言えば、JRSができたばかりの頃に、最初は上智大学のアジア関係研究室(当時)が、後には大学全体が、タイの難民キャンプに避難していたカンボジア難民やベトナム難民の問題に、積極的に関わった。当時、大学の積極的な指導のもと、多くの学生たちが難民キャンプで短期のボランティアをするために、タイを訪れた。このプログラムは短期間で終了したが、多くの学生たちが難民生活の悲惨さを体験することができた。キャンプは難民の人間性や精神性をおとしめた。何千という難民が「難民」認定を受けられず、不法入国者の扱いを受け、時には陸から数十メートルの船のなかで、座ることも横になることもゆるされないまま、国外へと送り返された。難民はもっとも基本的な権利さえ認められない、政治的な「物乞い」のような扱いを受けていた。アジア関係研究室が発行した2冊の本、『ドキュメンタリー ボートピープル 見捨てられた人々』(1978)と『難民-インドシナ難民の叫び』(1980)は、JRS設立のきっかけとなった難民の悲劇的な状況を、生々しく想起させる。
 現在、上智大学の社会正義研究所が、アフリカのJRSと連絡を取り、アフリカの難民に対するいくつかのプログラムを支援している。また、社会正義研究所はたびたび、世界の難民問題に関する国際シンポジウムを開催している。

 東京のイエズス会社会司牧センターは、日本におけるJRSの連絡事務所で、主にバンコクのJRS地域事務所を通じて、東アジアにおけるJRSのさまざまなプログラムに深く関わってきた。また、JRSカンボジア(現在のイエズス会サービス・カンボジア)と協力して、日本における対人地雷廃絶キャンペーンを推進してきた。また、ベトナムやカンボジアで開発支援を行う市民グループにも協力している。さらに、日本国内でも、日本で暮らすインドシナからの難民や流民のために、さまざまな世論喚起のプログラムを行ってきた。現在、日本で働く何十万人もの外国人労働者の状況が非常に厳しくなっている。なかでも緊急の課題は、彼らの司牧的ケアと世論喚起の仕事だ。

(世界各地のJRSの25周年記念行事については、JRSのホームページなどをもとにまとめた。詳しくはhttp://www.jrs.net/reports/を参照。なお、JRSの25年の活動の歴史をまとめた本が、近々刊行される予定)

JRSアジア・パシフィック、野外ミサ

(写真は2点とも “Jesuit Refugee Service: 20 Years of photographs and text 1980-2000”より) 

【 報 告 】日本の「難民」の過酷な現実

日本の「難民」の過酷な現実) 【社会司牧通信140号2007年10月15日】
小暮 康久(イエズス会社会司牧センター/神学生)

はじめに
~中間期6ヶ月を経過して~
この4月から「社会司牧センター」での中間期を始めてちょうど半年が経ちました。社会使徒職分野での中間期ということで、本当に手探りで始まったという感じでした。しかし「とにかく外に出て行き、現場に入り、そこに留まり、何が起きているのかを体全体で感じたい」という思いだけは、初めからはっきりとしていました。なぜなら、そのような「現場」の体験の中からしか本当の洞察は得られないし、そういう類の洞察こそが神様からの呼びかけであるという直感があったからでした。「現場」を通して「時のしるし」を見出していくこと、これがこの社会使徒職分野での中間期という機会を用意してくれた神様から託された、わたしのテーマ(ミッション)だと感じていたからです。

3年前に日本管区は現代日本の重要課題として3つの優先課題を掲げました。そのうちの2つ、つまり①地球規模の周辺化/Global Marginalizationの問題と、②移動する人/Migrationの問題に、この中間期でのわたしの活動の重心を置いています。特に①の地球規模の周辺化/Global Marginalizationの問題は、来年開催されるイエズス会第35総会の重要なテーマの1つとして上げられています。

日本における地球規模の周辺化/Global Marginalizationの問題とは、端的に言えば、最近よく耳にする「格差社会」「ワーキング・プアー」にあらわされているような状態の進行を指しています。新自由主義的グローバリゼーションによって、日本のような先進国においても「貧困」と「社会的排除」が確実に創出されてきています。「自己責任論」や「自立支援」という言葉の裏側には「社会的排除」という意図が隠されています。「野宿者運動」の現場の周辺では「スポット派遣」や「ネットカフェ難民」といった、最近になって顕著になってきた「不安定就労」の現実が、恐ろしいほどの広さをもってこの社会に浸透してきているのを目の当たりにしています。行政側は意図的に「野宿者問題」と「ネットカフェ難民問題」を別の問題として分断しようとしていますが、両者の構造的な原因が同根であることは明らかです。
また、移動する人/Migrationの問題とは、日本おいては「移住(労働)者」や「難民(申請者)」とそれをめぐる行政や司法、また経済界や日本社会そのものの対応に「人権的配慮」が著しく欠落しているために、当事者である移住者たちに過酷な生活を強いているという現実があるということです。足立区の「むすびの会」での移住者やその子供たちとの関わり、また日本で「難民申請」をしている人々(今回の報道で、日本でも多くの人が関心をもったであろう「ビルマ(ミャンマー)人*」や「クルド人」など)との関わりの中で、かれらがどれほど困難な(しばしば残酷な)状況を強いられているか、そしてその現実がいかに日本の社会から隠されているのかを目の当たりにしています。

この半年間、これらの「現場」で様々な人々や出来事と出会いました。そして、この「地球規模の周辺化/Global Marginalizationの問題」と「移動する人/Migrationの問題」が実は根底でつながっていることを感じています。

今回の通信では特にその中で、日本にいる「難民」の方々が今どのような状態に置かれているのかということについて、わたしのささやかな経験を踏まえながら報告したいと思います。
* 「ミャンマー」という国名は軍事政権が使用しはじめたもので、難民・支援者は抗議の意味を含め、通常は「ビルマ」を使用。

「難民鎖国」日本の現実
~針の穴を通るように難しい「難民認定」~
まず、日本の難民政策がどのようなものなのかについて説明したいと思います。「難民」とは「人種、宗教、国籍、特定の社会集団への帰属、政治的意見などの理由から本国で迫害を受けている、あるいは迫害を受ける危険があるため、国外に逃れており、本国政府の保護を受けることができない人、あるいは保護を望まない人」に定義される人々です。つまり、「本国では命があぶない人」ということです。この点が大切です。

日本は先の定義を謳った国連の「難民の地位に関する条約/1954年発行」(以下「難民条約」)に1981年に加盟しています。しかもUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への拠出金は世界第2位と、表向きは世界の難民問題の改善に貢献しているように見えます。

しかし、実際は下記の図を見てもらうと分かるように日本は「難民」の受け入れに非常に厳しい国です。この「難民条約」に基づいた「条約難民」はこの25年間でたったの410人しかいません。この難民認定の少なさが示すように、日本で「難民」として認められることは、「針の穴を通るような難しさ」だと喩えられています。

このように、「難民拒否」という現実(本音)と国際社会に対するポーズ(建前)がまったく違うということです。その本音と建前の違いを象徴しているのが、「出入国管理及び難民認定法」という法律に基づいて難民認定が行われているという現実です。つまり、外国人の出入国と在留管理を行う人間が、同時に難民認定も行うという現実です。「保護されるべき難民」があくまでも「管理の対象」としてしか見られない限界がここにあります。ここに根本的な問題があります。

そしてまた、この「難民拒否」という(本音)と国際社会に対するポーズ(建前)のギャップが大きな悲劇の原因の1つになっています。つまり日本は国外から見ると、条約に基づいて難民を庇護する国に見えるので、多くの庇護希望者が来日することになります。(もちろん庇護希望者が日本を選ぶ理由はそれだけではありませんが)そして、まったく違う現実-不法滞在者として犯罪者扱いされ、生存の権利を剥奪され(例えば就業権がないとか)、収容され、送還される-に直面するのです。つまり表現は厳しいですが、「表向き門戸を開いて難民を誘い入れている」というのが客観的な現実でしょう。

このような日本の状況の中では、日本に難民(庇護希望者)がどのくらい入国しているのかを把握することは不可能です。というのも、かれらの多くが逮捕や収容、その先の強制送還を恐れて「難民申請」それ自体を行えない状態にあるからです。また来日間もないかれらにとって「60日ルール」(入国して60日以内に難民申請しなかった者は難民としては認められないというルール、一応2005年5月の難民認定制度改定で廃止されました)など知る由もなく、手続きを行わないうちに期限を逃してしまった人々も多くいます。そして、そのような状態で日本に滞在しているかれらを「不法滞在者(犯罪者)」として逮捕・収容するのです。ある人々はこのような現在の日本の難民政策の実態を「難民だまし討ち迫害」と呼んでいます。実際に多くの難民(庇護希望者)が日本での過酷な現実に直面して「何で日本に来てしまったのか…」と感じています。

「難キ連」の全国ワークショップ
~「入管収容問題」~
この半年間で多くの難民当事者の方々や支援者の方々との出会いがありました。6月8日~9日には西早稲田の日本キリスト教会館において「難キ連」(難民・移住労働者問題キリスト教連絡会)のワークショップが行われました。全国から難民・移住労働者の支援活動をしているNGOやキリスト教教会関係者、そして難民当事者の計110人が参加したものとなりました。今回は主に「入管収容問題」を中心に、東日本(茨城県牛久市)、西日本(大阪府茨木市)、大村(長崎県大村市)の3つの入管センター(収容所)で、被収容者面会支援活動をしている人々が一同に会するものとなりました。

はじめに、2001年から東日本入管センター(牛久)に出向き、収容中の難民に面会し聞き取り調査を行なっている横浜市港町診療所の山村淳平医師(海外の難民キャンプなどで長く医療活動をされてきた経験をもつ)からの報告と問題提起がありました。

入管センターでの面会はガラス越しで、しかも時間も制限され一般の診察は不可能なのですが、しかしそのような条件下での聞き取り調査の中でも、収容された難民には不眠を筆頭に体重減少・食欲不振・頭痛・体の痛み・腹痛・体のふるえなど多彩な症状がみられること、それが不当な収容に対する困惑・怒り・不信、将来に対する不安、センター内で日常的に繰り返される非人間的な扱い、また言葉の暴力による恐怖心などが原因で精神状態がきわめて不安定となった結果生じてきていることが報告されました。

また、仮放免された難民に対して港町診療所で診察とスクリーニング検査を実施し、必要に応じて精神科医などの専門家による診察を行った結果、そうした外部の医師による診断では、難民申請者のほとんどに「うつ状態」がみられ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、ATSD(急性心的外傷性ストレス障害)などの精神疾患があること、また同様に、胃炎/十二指腸潰瘍、腰痛症、高血圧、皮膚疾患などの身体的疾患があることも報告されました。

次に行われたのは、3つの入管センターで被収容者面会支援活動をしている人々の報告でした。そこでは、今後これら3つの地域(牛久・茨木・大村)で支援活動をしている人々の間の相互連絡と相互協力をより緊密にしていくことの重要性が確認されました。というのも難民が東日本(牛久)から大村(長崎県)に何の前触れも合理的な根拠もなく突然に移されるという事態が起きているからです。例えば、東日本(牛久)に収容されていたビルマ難民Aさんの場合、Aさんへの支援者(ビルマ弁護団)の面会が増えたとたんに大村に移されたということがありました。これは明らかに東京の支援者からの「引き離し」という意図の下に行われたことであろうというのがワークショップ参加者の一致した見解でした。

また今回のワークショップには元被収容者である何人もの難民の人々(難民申請中の人々、難民不認定処分に対する取り消し訴訟中(裁判中)の人々、既に日本での滞在をあきらめ第三国(カナダ)などへの移住を決めた人々など)も参加していました。入管センターでの過酷な体験と日本での苦しく長い年月、その中で失ったものなどを悲痛に証言する一人一人の難民の方の姿は本当に忘れることができないものでした。目の前で語るこの人たち、一人の人間をここまで苦しめる日本という国は一体何なのかと思わずにはいられませんでした。何度も言うようですが「難民」は「本国で命が危ない」から日本に来た人たちなのです。帰りたくでも帰れないのです。そのかれらをここまで苦しめる日本。かれらの証言は重く、そして本当に心の底から揺さぶられるものでした。それは人間(神の子)の尊厳を傷つけるすべてのものへの「怒り」であり、「人の心を取り戻せ!」というわたしたちの社会に対する、神様からの回心の呼びかけであるように感じました。
また今回は、上述の港町診療所の山村淳平先生や、牛久入管収容所問題を考える会の田中喜美子さん、大阪のRINK(すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク)の岩田賢司さん、 大村の長崎インターナショナル教会の柚之原寛史牧師など「入管収容問題」の現場で実際に多くの難民の人々を支え続けている方々、またアムネスティ・インターナショナル日本・難民チームの方々、NCC(日本キリスト教協議会)の方々、その他、情熱と共感をもって移住者・難民の方々と共に歩んでいる全国の多くのNGOやプロテスタント教会の方々と出会う機会ともなり、わたし自身もとても励まされました。もちろんその中には、CTICやさいたま教区の方々などカトリック教会内の仲間がいることは言うまでもありません。

2日目の最後には、今後も入国管理局への監視を継続していくこと、各センターでの処遇の改善を法務省・入国管理局へ要請していくこと、全国の支援ネットワークを強化していくことなどが確認され、今回の「難キ連」のワークショップは終了しました。

「移住連」の全国ワークショップ
~「外国人労働者受け入れ論」を受けて~
続いて6月9日~10日には昭和女子大学で「移住連」(移住労働者と連帯する全国ネットワーク:SMJ/Solidarity Network with Migrants Japan)の全国ワークショップが200名ちかい参加者を集めて行われました。「移住連」は文字通り「移住者」に関わっている全国のNGOのネットワークであり、上述の「難キ連」もそのネットワークの1つです。

今回の「移住連」のワークショップでは、少子化と将来の日本の労働力の減少予想にともない最近活発になってきた「外国人労働者受け入れ論」(内閣府・内閣官房・日本経済団体連合会などがそれぞれ出している答申や提言)を受けて、その受け入れ論の問題点などが提起されました。具体的には「高度人材」に限定した受け入れ枠の拡大や、それを補完するための研修生・実習生制度の拡充など労働力の確保の面と、外国人の在留管理と取り締まりの強化の面がセットで提言されている点などです。平たく言えば「有用な労働力を確保しつつ、状況に応じて追い出すことのできる体制の構築」ということになるでしょう。

労働者派遣法の制定(1985年)と数度にわたる改正(1996年、1999年、2003年)そして国内企業で進められてきたリストラクチャによって、派遣労働者(いつでも切り捨てられる不安定就労者)がこれほどまでに増大してしまった現在の状況と同じことを、今度は外国人労働者でやろうとしているというところが本音でしょう。

そこには外国人を安価で調整可能な労働力としてしか見ていない人権感覚の貧しさがあります。そしてこれは高い難民性をもった難民申請者(庇護希望者)に対しても、彼らを拒絶する人権感覚と共通するものがあります。例えば、2004年に国連大学前で座り込みをしたトルコ系クルド人の家族は、その後UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)からマンデート認定(難民認定)を受けたにも関わらず、2005年にはこの家族の二人が突然に強制送還されました。難民と移住労働者の支援に汗を流している多くのNGO、そして個人が闘っているのは、実はこの「日本の人権感覚の貧しさ」というものに対してなのかもしれません。

トルコ系クルド人難民
~エルダル・ドーガンさん一家~
上述の「難キ連」や「移住連」のワークショップや、またアムネスティ・インターナショナル日本・難民チームが主催する連続セミナーなどでも多くの難民当事者の人たちとの出会いがありました。

特にその中でも、先ほども触れたようにトルコ系クルド人の置かれている状況、つまりその難民性の高さにも関わらず、日本政府とトルコ政府の親密な関係という政治的要因のために、トルコ難民申請者の合計778人(ほとんどがクルド人)のうち、いまだに一人も難民認定されていない! という状況には、日本の難民認定制度がいかに国連の難民条約の理念と乖離したものであるかという現実を突きつけられました。2004年の国連大学前の座り込みの当事者であったクルド人難民エルダル・ドーガンさん一家(4人家族)は、結局、今年7月10日に第三国(カナダ)へ向けて出国しました。難民と認められないばかりか、就業権も与えられず、人間としてのプライドを傷つけられ、収容と仮放免の繰り返しだった日本で過ごした年月。本当は日本に住みたいと願い続けてきたエルダルさんの「日本はもういいです」という言葉は、今でも心に焼きついています。

ビルマ難民Kさんとの出会い
~上智大学での講演~
ビルマ難民Kさんとは山村先生を介して知り合いました。1988年に、ビルマの軍事政権が民主化を求める学生や民衆に対して発砲し弾圧した時に、Kさんはヤンゴンで公務員として働いていて、職場の同僚と共に民主化運動にも参加していました。しかしそのことが軍事政権当局に分かってしまったため、職場の同僚は次々に解雇され、Kさん自身も身の危険を感じたために、弾圧を逃れて1990年に来日したのです。
Kさんのビルマでの体験や今の日本での生活の様子など、是非、若い人たちに聞いてもらいたいと思った私は、7月に上智大学の瀬本神父の授業の1コマでKさんの話をしてもらう機会をつくりました。当日は山村先生やアムネスティ・インターナショナル日本・難民チームの方や、ビルマ市民フォーラムの方にも参加してもらいました。
Kさんからは、ビルマではどんな職場にも政府のスパイが入り込んで監視されていること、拘束された人々の尋問は身体的な拷問をともなう酷いものであること、国内の少数民族への弾圧(殺害、レイプなど)の実態など、軍事政権の具体的な人権侵害の様子が語られました。
また日本に来てからの苦労も語ってくれました。生活するために肉体的にも厳しい仕事をしてきたこと(難民申請中の人には「就業権」が与えられていない。霞を食べて生きていけというのだろうか?)また、国民健康保険などの公的な社会保障が利用できないために、高額な医療費(100%自己負担)を支払わなければならず、実際に大きな手術をしたKさんは、現在もその支払いが終わっていないような状態であること。また日本は属地主義ではなく、血統主義による国籍付与であるために、日本に来てから生まれたKさんの子どもが「無国籍」の状態になってしまっていることなどを語ってくれました。
しかし、そのような苦しい状態の生活にも関わらず、同じように日本で苦労しているビルマ難民の友達や、ビルマ国内にいる「国内避難民」の人々のために、お金や物を送ってきたKさんの人生は、「苦しみを知っている人だけが、隣人の苦しみに本当に共感できる」という真理を無言のうちに語っていました。
そして最後に、「何とかビルマで安全に暮らせる日が来るまで、どうか日本で難民として暮らすことができるようにお願いしたい」と語りかけた難民当事者のKさんの言葉は、どんな日本人支援者が語る言葉よりも力をもって学生たちの心に響いたようでした。授業終了後の学生たちの反応も『ビルマでこんなことが起きていたことを初めて知った』『日本にいる難民の人々の困難な現実を初めて知った』『私たちの社会のあり方を考えさせられた』というものでした。
きっと今回のビルマでの一連の民主化要求デモとそれを弾圧する軍事政権の映像は、授業を聞いた学生たちの心にKさんのことを思い起こさせたことでしょう。

最後に
日本の「難民」問題は社会から隠れて(隠されて)います。「難民」だけではありません。この社会の中で「利用され弱くされた者」は「分断されて」そして「何事もなかったかのように」、「気づかれないように」社会から排除されていきます。だから社会から見えないのです。かき消されてしまいそうな、かれらの「小さな声」に耳を傾ける時、その声は神様からの言葉のようにわたしたちの良心に訴え、わたしたちに大切なものへの気づきの恵みをもたらします。すべての人が本当の幸福を実現していくことのできる社会(つまり愛に根ざした社会:神の国)を作っていくためにしなければならない一番大切なことは、この「小さな声」に耳を傾けていくことだと強く感じています。そこに神様の光が溢れているからです。