カテゴリー別アーカイブ: 入管法

報告:東アジア・太平洋地域における移民労働者のイエズス会ネットワーク

安藤 勇 SJ

6つの国と東アジア・太平洋地域(JCAPアシスタンシー)で移taiwan6

民労働者のために活動しているイエズス会員と協働者の代表者グループが、6月の第一週に一週間ジャカルタ(インドネシア)に集まりました。JCAP地域での移民のために任命されたコーディネーターであるイエズス会のベニー・ジュリアン神父がこの会議を招集しました。その目的は、将来も活動を続けて、新たにイエズス会機関を取り込んでいけるよう、このグループを発展させることでした。特にベトナムとマレーシアのことが考慮されました。

3年間(2015 – 2017)実行計画が決定されました。この計画は、移民労働者と在留資格がない人たちに焦点を絞っています。人身売買の犠牲者たちを含むイエズス会難民サービス(JRS)の活動もまた取り組まれるべきです。JCAP地域において、主要な共通の関心事のひとつは、とても多くの移民労働者が悪影響を受けている現在のブローカー制度に注目する必要があるということです。

JCAP地域は、毎年何十万人もの移民を送る側の国と受ける側の国を含みますので、参加者は受ける側の国から送る側の国まで、そしてその逆においても、移民に不可欠な情報に関して親密な協力をしていくことで同意しました。協働者たちからなる新しいイエズス会のネットワークは、この3年間で代表とされた各国に与えられる研究補助金を決定しました。その研究テーマは、以下の通りです。a) 移民の子どもたちの福祉(2015) b) 移民の帰還と自国での受け入れ (2016) c) ブローカー制度(2017)。

この件に関するより詳しい情報は、次回の通信の記事で提供します。

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イエズス会ベトナム管区のソーシャル事務局

社会司牧サービスのためのアルベルト・ウルタドセンター
マイケル タム SJ (AHC責任者、ベトナム)
【社会司牧通信174号2013年12月20日】

私たちはどのようにしてベトナム人イエズス会員の社会使徒職の歩みを語ったらいいでしょうか?私はスペイン人イエズス会員、Fernando Larranaga神父(1917-2013)の1975年からの話でもってはじめたいと思います。

1975年4月30日、ベトナム共産主義軍の戦車は、南ベトナムの大統領官邸の重たい門に衝突し、これを破壊しました。この時が、30年以上続いたベトナム戦争の終わりでした。北ベトナムと南ベトナムは一つの国に統合されました。それ以来、ベトナム全体は、新しい共産党政権のもとでの生活が続いています。

ベトナムで起きたことは、共産党が政府を維持していた時代の旧ソビエト連邦や中国で起きたことに似ています。南部の多くの人たちは刑務所や、強制労働のためにへき地に送られました。彼らは前政府の役人や軍人、そして多くのカトリックの司祭でした。新共産党政権は、彼らを重労働によって教育しなおす必要があると考えました。

新政権はまた、カトリック教会やNGOによって実行されているいかなる奉仕活動をも怪しんでいます。新政権は、NGOに社会的な奉仕活動に参加してほしくなかったのです。

ベトナム戦争以後の時代には、ベトナムはますます貧しくなっていきました。新ベトナム政権は共産主義同盟諸国から過去に受け取ってきたものを、返済しなければならなかったのです。そのとき、あるベトナム人司教がLarranaga神父にベトナムをサポートしてくれるよう頼みました。結果として、1984年、Larranaga神父は「ベトナムへの援助Aid to Vietnam」(ATV)という事務局を香港に開設し、彼は最初の責任者になりました。1994年、彼は事務局をマニラ(アテネオ・デ・マニラ大学の敷地内にあるソノラックスビルの中)に移し、そして名称を、JCEA(イエズス会東アジア管区長会議Jesuit Conference of East Asia)(*) 傘下の「ベトナムサービス事務局Vietnam Service Office」(VS)に変更しました。VSの目的は、孤立していたベトナムのイエズス会地区とイエズス会総長の架け橋になることと同様に、福音宣教、教育、社会開発という3つの主要分野のためのプロジェクトをサポートすることによって、ベトナムを支援することです。Larranaga神父は、ベトナムで多くの地域の小教区司祭とシスターたちとのネットワークを通して、社会活動を続けることができました。

(*)JCAP(Jesuit Conference of Asia Pacific)の旧名VSの仕事は、もう一人のスペイン人イエズス会員、Felipe Gómez神父(1996-2008)によって続けられました。Larranaga神父とGómez神父の目立たない長期間にわたる仕事は、大いに成果をあげました。多くのプロジェクトがベトナム中に行われました。たくさんの貧しい人たちはサポートを受け、彼らの生活は変わりました。2007年に、VSはベトナムへと移され、「社会司牧サービスのためのアルベルト・ウルタドセンターAlberto Hurtado Center for Social and Pastoral Service」(AHC)という新しい名称になりました。ベトナム人イエズス会員マイケル・タム神父(筆者)は、現在、Gómez神父の後任者です。

ベトナム南部の多くの人たちと異なり、ホーチミン大司教区のPaul Nguyen Van Binh故大司教は、1975年4月の出来事は、ベトナムカトリック教会を、以前の富(多くの学校、病院、多くの社会センター)から浄化した、という見方をしました。ベトナム南部のカトリック教会が事実上、ほとんど全ての財産を失ってしまったとき、教会はより霊的になり、そして何よりも誰よりもまして神様を頼りにしたのです。さらには、ベトナム南部が共産主義者によって解放されたとき(共産主義者たちはいつもそのように言います)、ベトナムのカトリック信徒は、共産主義者や彼らの無神論的な考えと対話する機会が与えられました。そして、ベトナムカトリック教会の社会奉仕活動は成果を上げながら続けられたのです。

1980年後、若いベトナムのイエズス会地区はキリストの苦悩を経験し始めました。つまり、全ての外国人イエズス会員はベトナムから追放され、ほとんどの若いイエズス会司祭たちは牢獄に入れられ、全てのイエズス会の建物は差し押さえられ、そして若い神学生は養成施設も、養成の指導者もなくしてしまったのです。ベトナムのイエズス会地区は2005年まではアンダーグラウンド化しましたが、ついに2007年、イエズス会の中で最も若い管区であるとみなされました。今では、神様はベトナム管区に大変多くの召出しを与えてくださいます。現在、ベトナム人イエズス会員の数は197人ですが、その5分の4は、養成期間中なのです。

2007年にマニラからサイゴンへ住所を移したAHCは現在、多かれ少なかれ、Gómez神父の時代と同じ社会活動をしています。大変多くの若いイエズス会員を抱えているベトナム管区は、優先的に彼らの養成を行っています。それにも関わらず、AHCに常駐しているイエズス会員の数は二人だけです。一人の司祭と一人の中間期生です。このようなヒューマンパワーを欠いた状況の中で、AHCは現実的には、寄付者とベトナム人司祭と社会開発のプロジェクトを実行しているシスターたちとの架け橋になることを引き受けねばならないのです。社会開発の多くのプロジェクトにおいて他の人たちと共に働くことは、今では、AHCの一つの強みです。

AHCが始めた一つの新しい活動は、ソーシャルワーク、社会開発、そして社会正義の喚起に関するワークショップセミナーを組織することです。AHCはカリタスベトナムや他の修道者や司祭とのネットワークと連携して活動しています。このような協力関係は、単にヒューマンパワーの欠如という理由だけでなく、最新のイエズス会総会の教令(第34回総会「一般信徒との協力」、第35回総会「ミッションの核心における協働」)に応えるためでもあるのです。

Larranaga神父とGómez神父がされた前の仕事は、ベトナムで続けられるべきです。イエズス会ベトナム管区の社会使徒職の歩みは、他のベトナム人イエズス会員からもまた伝えていく必要があります。AHCはより多くの若いベトナム人イエズス会員が基礎的養成を終えるまで、持ち堪えなければなりません。他方で、他の管区のイエズス会員や他の人たちとの協力関係は、AHCにとっては、現実的な事柄ipso factoなのです。

どうぞ遠慮せずに私にいつでもご連絡ください。AHCの仕事に関心を持っていただきまして感謝いたします。
Email: mitasj@yahoo.com

東北被災地ボランティアにつどう若者たち

社会の窓から⑧ 村山 兵衛(イエズス会神学生) 【社会司牧通信165号2012年6月15日】

東日本大震災はもはや「終わった」出来事なのか。誰もこの問いに「はい」とは答えまい。しかし離れた土地で暮らす者にとってその実感は薄い。津波による大量の「がれき」は、依然として何メートルもの高さの山のまま沿岸地域に残っている。推定1.5トンとされる津波漂流物は、太平洋の波に運ばれて、北米西海岸に姿を現し始めている。復興のめどの立たない産業、故郷を奪われた人たちが方々から集まる仮設住宅内の生活不安、そして大切な人を失い、家族を引き裂かれ、思い出したくないつらい記憶に今なお苛まれている大勢の人々――これらはマスメディアの報道が下火になっても決して黙殺されてはならない現在進行中の事実である。緊急性を要する支援活動が減ってきているとはいえ、被災地ボランティアの活動には、まだまだ多くの人手を必要としている。

ゴールデンウィーク中にわたしは、イエズス会の中井神父、サリ神父によって企画された「東北被災地ボランティアと祈りのプログラム」にスタッフとして参加した。中国地方と関東圏の教会および上智大学から約20人の若者が集まり、イエズス会スタッフ6人と共に5つのグループに分かれて、それぞれの滞在地で2 ~10日間被災地ボランティア活動をした。滞在地は、カリタス・ジャパンおよび日本各地のカトリック教会が運営する宮城・岩手県内の5つのボランティア・ベース(釜石、米川、塩釜、大船渡、大槌)であった。わたしもイエズス会スタッフのひとりとして米川ベースで5人の仲間と活動と祈りを共にし、多くの発見を持ち帰った。最終日には仙台のドミニコ会修道院にみなが合流して、分かち合いとミサをして、それぞれ帰途に就いた。

どんなに努力しても次々と迫ってくる復興への需要に対して、ボランティア活動をする者は、己の無力感に気づかされる。わたしは、町のほぼ全体が津波で大打撃を受けた南三陸町で、今なお残る大量の「がれき」の撤去および分別に参加させていただいた。震災被害の凄まじさに圧倒される日々であった。作業中にある家族が、土台だけ残された家屋の敷地に花を捧げているのを見た。休憩を終えて作業現場に再び戻るわたしたちに、この母娘は深々とおじぎをした。感謝されるようなことはまだ少しも果たせていないと感じ、わたしは複雑な心境であった。そんな様子に気づいてか、この母と娘さんはわたしに話しかけて来られ、ちょっとの立ち話のつもりが、色々お話を伺う機会となった。この母は、夫も娘婿も津波によって命を奪われ、自分と娘さんだけが助かった次第をお話し下さった。土台だけ残されたこの「わが家」に来るのは、いまでも勇気がいるし辛いという。

震災を生き延びて、これから暮らしを立て直そうとしている人々にじかに接するときほど、ボランティアの非力さに気づかされることはない。今なお苦しみを抱え、震災の傷の癒えることを待ち望んでいる人々が、大勢いるのである。この家族は、わたしたちのような若者が遠くからボランティア活動に来て、元気に汗を流して「がれき」を拾って集めていく姿に、自分たちも元気を得ていると言っていた。わたしたちが拾っている物をつぶさに見れば、それは南三陸の漁師たちが長年育ててきた牡蠣の貝殻であり、漁師たちの網である。衣服や靴は地元民の生きたあかしであり、海水に浸かった写真や賞状は、残されたわずかな「家族の思い出」なのである。

これは決してわたしだけの体験ではない。効率や成果という観点では決して見えてこないボランティアの意義があると実感する。実際、今回のプログラムで祈りと経験をともにした多くの若者が、様々な思いを持ち帰っていった。もちろん復興支援では具体的な成果や効率を無視することはできない。しかし共感と支援の必要性と人間同士の助け合いの精神は、就職難に見舞われる競争社会のただ中にあっても、忘れてはならないものではないか。復興に向かう地元の人々への配慮と思いやりを通して、多くの若者が何かを感じて持ち帰り、また被災地ボランティアに出かけてゆく。実に被災地には、「人の手とこころ」を通して行われるボランティア活動が、今なお必要とされているのである。