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ヘイトスピーチと和解の対話

村山 兵衛 SJ (神学生)
【社会司牧通信173号2013年10月15日】

新大久保や鶴橋などで排外主義、レイシズムなどと呼ばれる「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)を行うデモが今年も何度もあった。しかし、ニュースや国会で話題になり危機意識も高まる一方で、議論の焦点が不透明化し始めている。そもそも、ヘイトスピーチをめぐって何が見失われているのか。万人がもつ尊厳を守り、ゆるしと和解のために対話の可能性を信じることを、私たちは決して忘れてはならない。

人種や性別を理由に差別をかき立てる言動、ヘイトスピーチは、ドイツではナチスの反省から「民衆扇動罪」として処罰される。が、日本は個人に特定化しえぬ名誉棄損として処罰せず、法規制を行なっていない。現場に居合わせた人なら、数百人からなる小規模なこのデモ活動の恐ろしさがわかる。排外デモ集団の主張は、在日コリアンの特別永住資格や生活保護制度などに対する不満である。彼らは日本の占領同化政策で過酷な歴史を背負う在日コリアンの複雑な背景を「在日特権」と一括りにし、民主主義、表現の自由の名で差別的発言を堂々と行う。デモ集団の実態は、インターネット上の匿名活動で発奮した一部の「ネット右翼」といわれるが、在日コリアンに「帰れ」「どの朝鮮人も皆殺しに」と叫ぶのは、もはや嫌がらせを越えた迫害である。

問題は政治レベルでも膨張している。竹島や尖閣諸島の領土問題、従軍慰安婦をめぐる歴史認識は、国益や愛国心によって対立が助長される契機となっている。メディアはそれを掻き立てる。政治抗争や国の利害ばかりが問題とされ、人間どうしの真の平和や和解も、勝者の歴史から消された涙や叫びも顧みられない。つまり、危機意識は曇るが、危険は増大しているのであり、現状では日本政府は差別発言を結果的に容認してしまっているのである。さらには、人権尊重を教える教育現場と、社会的強者がものをいう商業社会とが、全く乖離する構造の中で、若者にも甚大な影響が及んでいる。

排外デモとともに、対抗デモも広がっている。差別行動には断固として「ノー」と言わなければならない。しかし、排外デモを主導する在特会の「殺せ」「出ていけ」などの罵声が拡声器で飛び交う一方で、差別反対を訴える善意の人々の中に、大声で「お前らこそ死ね」と叫ぶ一団も存在するという現実。差別的な嫌がらせに同じ嫌がらせをもって対抗していいはずはない。「仲良くしようぜ」という対抗デモのスローガンは、差別の犠牲者に共感・共苦してはじめて真実味を持ちうるのではないか。

現在、デモは小康状態の様相である。在特会、対抗派の双方で逮捕者が出て、政治家からも自粛や法規制の訴えが起こっているからだ。しかし、問題の根は法規制にあるのだろうか。あらゆる法規制、裁判制度は紛争解決のためのシステムとして考案され、歴史の知恵として適応・修正を重ねながら機能してきた。在特会の「法が禁じていない抗議をやって何が悪い」という主張には、根源的な価値基準が欠如している。

ヘイトスピーチ問題で見失われたものとは何なのか。傷つけられ涙する人間である。国家の威信や愛国心の陰に隠れてしまった人間の尊厳である。それは、誰もがただ人間というだけでともに生きる資格を持つと認め、全体主義、民族浄化を拒否し、対話による相互理解・和解の可能性を諦めない忍耐強さである。暴力的表現は、たとえ制裁活動に用いられても、この人間的尊厳を破壊する。だから私たちは、己の人間らしさと他者の尊厳を守るため、そして将来に人間の根源的価値を伝えるために、ヘイトスピーチに「ゆるしと和解」の手を差し出し続けなければならない。言論による人間性の剥奪は、自由でも表現でも民主主義でもない。根絶すべきなのは、憎しみである。

キリスト者はどう答えるのか。ゆるしと和解の使信は、カトリック教会から発信され続けており、紛争の絶えない地域で教会指導者たちが和解を求める祈りと活動を展開している。我が国のヘイトスピーチ問題についても、国外の教会から対話と祈りを求める声が届いている。教皇フランシスコは今年9月7日を「シリアと中東と全世界の平和のための断食と祈りの日」と定め、全教会とすべての善意の人々に参加を呼びかけた。これは、平和への道が神の裁きや聖戦ではないことを明らかにしている。神の呼びかけのしるしは、信じてそれに応答する人々に他ならない。争い絶えぬ社会で和解への対話を模索することこそ、憎しみを根絶し、人の尊厳を救う唯一の道ではないか。