はじめまして

山本 啓輔(イエズス会社会司牧センタースタッフ) 【社会司牧通信168号2012年12月21日】

はじめまして、今年8月から社会司牧センターの職員として働いております、山本啓輔と申します。よろしくお願いします。わたしは上智大の哲学科98年度卒のOBです。わたしはキリスト者ではないのですが、この度、ご縁があってイエズス会の働きの場の仲間に入れていただくことになりました。さしあたりキリスト教(カトリック教会及びイエズス会)のことを改めて学び、社会使徒職ということのイエズス会の中でのポジションとミッションを学び、そして現に一緒に働いている所長及び同僚職員のことを観察しながら、ここはどんなところだろう、と理解に努める日々です。

現在カトリックを学ぶという意味もあって、マザーテレサの手記を少しずつ読み進めています。大変タフな内容で、圧倒されることもしばしばですが、ここでひとつ特に感銘深かった言葉を引用したいと思います。
「本当の意味で愛するということは、傷つくということなのです。事実、他の人たちを傷つけないで彼らに善いことをするためには、それがわたしから何かを奪うことであっても、喜んで与えなくてはならないのです」。
いま私たちが生活している日本という国は過度に傷つきたくない人の集まりのようにも思われます。自分のことを他者に開くのを極度に恐れているようです。それは他者に心を開いて傷つけられることに対する警戒心でもあり、やはり恐れなのだと思います。そしてそれはどうも信仰者と自称する人にとっても同じようにわたしには思われます。

しかし、マザーも言うように、本来愛するとは、別言すると、人と関わるとは、傷つくということなのです。したがって愛があるとは、他者に向かって、侮辱を受けるリスクがあるとしても自己を開示する覚悟のようなものなのかもしれません。愛することが他者への開き(関わり)であるならば、信仰者も信仰者じゃないも関係ありません。むろん、節操もなく自己を垂れ流しにするのがいいというのではありませんが、やはり、人の善になるとは、リスクの中へ飛び込むことであり、大変勇気のいることなのだと思います。しかし一方で、そもそも人は人との真の関わりなくして生きてゆけないし、存在できないし、また幸せにもなれないはずです。その意味でもこの日本の異常に他者を恐れる対人恐怖症的な(またそれを再生産している)社会で生きてゆくのは、随分しんどいことだと思います。そんな中で、人が他者に対しておのれを開くという事態を可能にするものがあるとすれば、わたしはそれはやはり「信仰」なのだと思います。あれやかれやの信仰ではなく、ただ唯一の「真実」への「信仰」のことです。信仰からの恵みのみがわたしたちに本来の愛を呼び覚まし、他者への開き(関わり)へと向かうパワーを授けうるのだとわたしは思っています。

「確信」「信念」という言葉が死語になりつつある、この日本で、わたしは名もなき信仰者の小さな働きから、人との繋がりがうまれ、人間関係が豊かになってゆくことを心から願っている者です。だって困難な状況の中にあっても人としての可能性は絶対に消えないのですから(これはわたしの信念)。
こんなわたしですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

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